右脳な舞・左脳な迷

微笑 中動作誤に常正 くし楽も日今 ありがとう

震災から10年  私のための記録

昨日から震災特別番組で我が故郷・神戸の風景を見る事が出来て、とても嬉しい。センター街にユニクロ出来たの?帰省した時に三宮へ行っとくべきだったよ。
あの時の状況は今でもはっきりと覚えている。前夜から、コンピューター(Quadra800)に向かって作曲のアレンジを仕上げ、その出来を何度も聴き返していた。午前4時半を回った頃だろうか、そろそろ寝ようと思ったのだが、何故かコンピューターでシミュレーションゲームを始めてしまった。
 そしてその後、とてつも無く大きな揺れとともに停電し、画面が消えた。縦揺れだとか横揺れだとかは全く記憶にない。机の上にあったものはモニターとキーボードを除いて全て床に散乱した。棚も倒れた。倒れていない棚も本やCDは全て床に吐き出していた。明かりと情報を求めて、家族がリビングに集まった。そこでも箪笥が倒れ、食器などが床に散乱していた。停電しているのでテレビもラジオもなく、何が起こっているのか全然分からない。電話も通じない。水も出ない。確か電池とラジオを見つけ出してラジオ放送を聴いたのだが、NHK大阪のラジオ放送は、夜明けまで普段通りの放送だった様な記憶がある。すぐに夜が明けて来たが、山の中の比較的高台にある我が家の窓から見える近隣住宅街にそれほどの変化はないようだったので、部屋を片付ける。
確か昼過ぎに電気が復旧する(被災の中心地からすこし外れていたので幸運な事に復旧は比較的早かった)。地震に襲われてからの6時間。この一番大事な時間帯に、現地では電気も水も情報も、電話もない。テレビで見る神戸は燃えていた。地震による死者は200人を越える。そんな報道だったような記憶がある。しかし、時が経つにつれ死傷者はどんどん増えて行き、地震がもたらした未曾有の被害がだんだん明らかになって来る。自分が生きている幸運を感じると同時に、阪神間に住んでいる親戚や友人達の心配が出来る様になるまで1日以上かかったのだ。その日の夜、満月の月がとても美しいオレンジ色をしていた。満月と新月の日は地震に注意しよう。
翌日からは消防車・救急車・パトカーのサイレンとヘリコプターの轟音が絶えなくなる。電車が止まっていて、市内へ出る事も困難だ。車で市内へと思うが、とてつもない渋滞、いや停滞で無理だ。この渋滞は1ヶ月以上続く。避難所へ物資を運ぶ車。被災地から瓦礫やゴミを運び出す車。首都圏で直下型地震が起こった場合、車は使えないと思った方がいい。いや、緊急車両のために自家用車は使うべきでない。バイクと自転車は使える。
水が出ない地域では水洗便所は使えない。避難所になっている小学校の水洗便所は凄い事になっていた。1週間後、大阪へ谷村有美さんのコンサートに行く。地震でコンサートが次々と中止になって見捨てられた感じがした。そんな中、予定通りの谷村さんのコンサートは嬉しかった。だが、家に帰る手段が無かった。夜、被災地を歩いた。あちこちの公園でテントが張ってあったり、毛布と新聞紙にくるまって寝ている人がいた。申し訳ない話しだが、被災者なのか浮浪者なのか分からないような状況におかれている人も沢山いた。道路が使えそうな地点からタクシーに乗ったら(というか運転手さんが「**なら走って行けるよ」と声をかけてくれた)、運転手さんは当日の武勇伝を話してくれた。
街を歩くと平衡感覚を失う。倒れた家屋。傾いた電信柱。眼が回るようだ。およそ1ヶ月後に車で市内を走った時は、普段見慣れている風景が一変して目標物を失ったため、自宅へ帰る道を何度も間違えた。信じられない事だが今まで普通に右折していた交差点を平気で直進した。
(…続く?)